ホルスト・シュタイン [関わりのあった人々]
ヴォルフガング・ヴィントガッセン [関わりのあった人々]
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール 1914.06.26-1974.09.08 ドイツ)は第二次世界大戦後のドイツにおけるワーグナーテノールあるいはヘルデンテノールの第一人者です。両親とも第一線で活躍した著名なオペラ歌手で、父フリッツ・ヴィントガッセン(1883-1963 ドイツ)は英雄的な役を担当するテノールでした。母は夫のシュツットガルト歌劇場専属契約に伴い、引退しようかという矢先に病気で亡くなり、幼い息子たちの世話は母の姉妹に委ねられたということです。ロベルト・シュンク [関わりのあった人々]
ゲッツ・フリードリヒvsペーター・ホフマン [関わりのあった人々]
ペーター・ホフマンとゲッツ・フリードリヒ(1930-2001 ドイツ)の関わりは、ホフマンがデビューしてすぐにはじまりました。ホフマンの伝記(2003年)でヴォルフガング・ワーグナーは「ゲッツ・フリードリヒはリューベック歌劇場の専属歌手だったペーター・ホフマンに注目し、バイロイト音楽祭にふさわしいと考え、1973年8月12日に、バイロイト祝祭劇場において、パルジファルとローエングリンのオーディションを受けさせた」と語っています。フリードリヒ一人ではなく、某年配の歌手(だれでしょうか)、ロルフ・リーバーマン、エージェント・シュルツなどがホフマンのバイロイト・デビューに関わったようです。
ルネ・コロvsペーター・ホフマン [関わりのあった人々]
マスコミをはじめ、世間は、対立する大物という図式が大好きなようです。人気者同士がお互いに無関心だったり、ごく普通の人間関係を保っていたりするのは全然おもしろくないというわけです。お互いにライバル意識むき出しという感じで、熱くなっていてほしいのでしょう。
R.バートン〜テレビ映画「ワーグナー」 [関わりのあった人々]
トニー・パルマー監督、リチャード・バートン主演、コジマ役がヴァネッサ・レッドグレーブの連続テレビ映画『リヒャルト・ワーグナー』(1984年) 私が最初に見たのは短縮版のレーザーディスクでした。ヴィスコンティの映画「ルートヴィッヒ」などで、ワーグナーに興味を持って見たのでした。後で、思えば、もの凄い短縮ぶり・・・
連続テレビ・ドラマだったとは知りませんでした。おもしろくない映画だと思いました。ペーター・ホフマンが出演しているらしいことは後で知って、改めて見てみましたが、確認できませんでした。何の役だかも知りませんでしたから・・ ずっと後になって、クラシカ・ジャパンで、全10回(1回、約50分)が、連続放映されました。それ以外は、輸入版のビデオしかないようです。
バーンスタインと共に....の一年 [関わりのあった人々]
ペーター・ホフマンがレナード・バーンスタインを知ったのは1980年のこと。バーンスタインの強い希望で行われたワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」でした。この企画は、およそ一年をかけ、このオペラを一幕ずつ、1981年の1月、4月、11月に、ミュンヘンのヘラクレス・ホールでコンサート形式の上演をし、同時にライヴ録音とテレビ用のビデオ撮りを行うというものでした。歌手にとって、これが初トリスタン役でした。このオペラ作品の中でも最高に難しく、テノールにとっては「陰気で、長く激しい紆余曲折があり、圧迫感があって、声にとっては拷問みたいな、殺人的に難しい役」を一歩一歩身につけるには、最良の条件とも言える企画だったのです。バーンスタインは、初トリスタンのホフマンに非常に協力的で、難しい箇所や、問題のある箇所を乗り越えられるよう、懇切丁寧な手助けを惜しまなかったということです。バーンスタインは、演奏者から最大限のものを引き出すべく、良い雰囲気を作ろうと最大限、努力します。
カラヤンとポップス [関わりのあった人々]
2003年発行の伝記から引用の続きです。
「私の車に乗せたとき、ポピュラー音楽も好きかどうか質問したところ、『良いポップスなら・・・』というこたえだった。私は、反応やいかにとわくわくしながら、ピンク・フロイドの『ザ・ウオール』のカセットを差し込んだ。彼はすぐに足を上下にゆらして、拍子をとっていた。車の中というプライベートな空間では、よく笑ったり、ふざけたりした。
(この挿話はP.ホフマンのHPにも載っています。http://www.peterhofmann.com/index-erinnerungen.html
「まさに、<Classic meets Pop>という状況誕生の瞬間」だと感じたということです」パルジファルのリハーサル中、ザルツブルク祝祭劇場から、レストランに食事にでかけたときのことだそうです)
カラヤン vs 歌手たち [関わりのあった人々]
2003年発行の伝記から引用の続きです。
「カラヤンは、気に入った歌手たちとはすばらしい共同作業をした。準備ができていなかったり、プロらしからぬところが見られたりした場合は別だった。そんな場合は猛烈に不快きわまりないといったふうに振る舞うことがあった。物凄い影響力を持っていた。あの小さな、ほっそりした男が公演ともなると、巨人になった。
しかしまた彼の冷たい態度が不安を引き起こしたようにも思われる。文字どおり蛇が一睨みで金縛りにしながら、それを楽しんでいるといった具合に、じっと見られて、声が出なくなった女声歌手が何人もいた。だから、彼は自分の後ろに歌手を立たせて、ベルリン・フィルに紹介したものだった。彼が特に好んで一緒に仕事をし、人間的にも気に入っていたソリストたちとは、気楽に親しくつきあった。」(ペーター・ホフマン)
厳格な完全主義者カラヤン [関わりのあった人々]
2003年発行の伝記から引用の続きです。
「カラヤンは徹底した完全主義者だった。彼は演出をし、指揮をし、車や飛行機だけでなく、とりわけ、スタジオでのレコード録音や、後にはテレビ録画などにも、新しい技術を意欲的に取り入れた。しかし、細切れにして録音すること、つまり、まずオーケストラを録音して、それから歌手の声を入れるというようなことは拒否した。総合的な響きの一体感を求めた。つまり、彼には、絶対的な静寂、まったく邪魔のはいらない、完璧な集中が必要だった。
椅子がぎしぎしきしんだり、何かが落ちたり、オペラには何らかの雑音はつきもので、それほど不快なものではないし、ほとんど誰も気付かないが、レコード録音の場合は別だ。どんな小さな雑音でもいちいち聞こえてしまう。
『パルジファル』のレコード録音は集中的に行われた。これは後にCDにもなったが、大成功で、1981年には最高のレコード賞である『グラミー賞』を受けた。私のキャリアにおいて多くの賞や表彰を得たが、『グラミー賞』は殊更誇りに思う。







