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28)ゲストブックから [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.172ー177
 最後にゲストブックに寄せられたいくつかの素晴らしいコメントを読者と共有したい。これらは何年にも渡って、大勢の訪問者のペーターの芸術と人となりに対する倦むことのない興味と関心を示している。卓越した歌手、ペーター・ホフマンに関する個人的な書き込みは、人の声がいかに多様な感情や感覚を引き出しうるかということを、明確に反映している。
* * *

 この部屋は世界的に有名な市民仲間、ペーター・ホフマンのバイロイト祝祭劇場、パリオペラ座、ニューヨークのメトロポリタンか劇場での大成功を思い出させる。(フリッツ・ダインライン博士)
* * *

 この部屋の中に立つとき、素晴らしかった年月と言葉では説明できない瞬間の数えきれない記憶がよみがえる。ありがとう!あなたがいないのが本当に寂しい!
* * *

 喜びに満ちた悲しみと共に。思い出は最後の貴重な買物。バイエルン放送交響楽団、バーンスタイン指揮のトリスタンの録音。

 マリエンバート生まれ
 最初『大型サイズ』の陸上競技選手
 ヴッパータール、ジークムント、デビュー
 バイロイトでトリスタン、パルジファル
 シュトルツィング、ローエングリン、なんという幸運か
 世界中で仕事
 名声、人気、そして大金

 今、私たちと共にケムナートにいるなんてすばらしい
 小さな部屋が作られて
 記憶が呼び起こされる
 勇敢な戦士、ペーター・ホフマンの
 バイロイトの最高に美しいジークムントだった

 ヴッパータールでのジークムントとパルジファルの記憶は、30年以上経ってもなお全ワーグナーファンの中に生き続けています。忘れられない時をありがとう。(ヴッパータール、リヒャルト・ワーグナー協会)
* * *

 最高のテノールの素晴らしい記憶。ありがとう!
* * *

 バイロイトの舞台で、ペーター・ホフマンが歌ったとき、私がその場にいたことを神に感謝します。あなたこそが私にとってはジークムントであり、ローエングリンであり、パルジファルであり、トリスタンでした。最高のオペラ歌手であると同時に本当に共感できる人でした。
* * *

 この部屋でペーター・ホフマンと共に素晴らしい時間を過ごしました。
* * *

 この部屋の静けさの中でたくさんの画像を眺め、あなたの美しい声に耳をかたむけるのは、素晴らしい体験でした。そのために50キロの道のりを車でやってきました。私はオペラ座の怪人の大ファンです。あなたがもう決してこの役をすることはなく、怪人役のあなたの姿を見ることもないのが悲しい。私の最大の願いはあなたが怪人役のDVDがいつか発売されることです。あなたに神の祝福と幸福を願っています。
* * *

 ペーター・ホフマンのためにこのような『記念の場所』が創設されたことは、非常にうれしい。私たちは長年にわたって彼の大ファンです。私たちは、ペーターが出演しすばらしく歌った実にたくさんの公演(オペラとコンサート)に行きました。私たちは、そういう体験の後、いつも感動し幸福でした。そして、それはずっと楽しい思い出として忘れることができません。(ミュンヘンから)
* * *

 ベルリンからここまでの道のりは100%たどる価値がある。古い記憶をよみがえらせてくれるのだから。あなたが今まで27年ずっと私と共にあったことを感謝しています。絶対また来ます(全時代を通して最高の怪人のために)
* * *

 あなたのすばらしい音楽をありがとう!あなたの音楽は私を夢の世界に誘い、芸術の美を体験させてくれました。あなたの美しい声は独特ですぐにはっきりとあなたの声だとわかり、非常に高い芸術性を有するものです。
* * *

 とにかく偉大だ。
* * *

この美しい場所が作られたことがとてもうれしい。心から感謝します。非常に感動しました。また来ます。
* * *

 ペーターの創造した音楽のすばらしい記念です…
* * *

 すばらしいアイディア、ペーター・ホフマンのために記念の場所が作られたことはすばらしい。私たちはなんと幸せな記憶を共有していることか。偉大な歌手の人生を振り返り、この場所のどこでも、音楽を愛する人たちが昔を思い出して感激できる。あなたは今もなお忘れられることがない。だからこそ、今日も人々は歌手ペーター・ホフマンにありがとうと言たくて訪れるのだ。
* * *

 ペーターのうっとりさせられる声は永遠に忘れられることはないだろう!
『朝は薔薇色に輝いて!』マイスタージンガーより
* * *

 あなたのおかげで私たちの人生がより美しくなったと何よりもあなたに伝えたい。私たちはあなたをいつも傑出した芸術家、傑出した人間として尊敬しています。忘れがたい時に感謝します。この場所ですばらしい記憶が戻ります。
* * *

 あなたとあなたの弟は世界中の多くの舞台を知っていた。常に情熱と恵まれた才能と共にあった。お二人の友人として、仕事仲間として、私は今までの数多くの共通の成功に永遠に感謝します。
あなた達はまさに「光の戦士」です…永遠に!(ヨッヘン・ロイシュナー)
☆ ☆ ☆

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27)ペーター・ホフマンの部屋 [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.166ー171
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 2007年の初め、素晴らしい申し入れがあった。ケムナート市の名誉市民であるマックス・ポンナート氏と親友の医師フリッツ・ダインライン博士が、ケムナート市にペーター・ホフマンの場所を設置するべきだと考えるに至ったという。この興味深い提案を受け入れるのにさして考える必要はなかった。兄は1981年にシェーンロイトの城館に越して来て以来、非常に心地よいと感じていただけでなく、長い間この地方とはとても密接にかかわり合っていた。初めの頃こそオーバープファルツ地方の方言には戸惑ったものの、私にとってもオーバープファルツ地方は心の中にしっかりと存在している。

 どういう部屋にするかは完全に私の自由に任される形でペーター・ホフマンの場所の開設を依頼されるということは、喜びであると同時に名誉でもあった。その部屋は旧ケムナート市庁舎、現在の市立図書館内にある。ウェルナー・ニックル市長の全面的サポートもあった。市長は兄に関しての常設展示という考えに大賛成だった。

 この部屋は元は実用書が置かれていた。まずは本棚を撤去しなければならなかった。改装工事、そして、私の考えの実現がゆっくりと始まった。壁を明るい色に塗ってもらった。訪問者に陰気で暗い博物館という幻想の世界に入るという感覚を絶対に持たせたくなかった。

 私たちは全員、この場所は兄のための心地よく品位のある部屋であるべきだと考えていた。そして、2007年の8月22日、ペーターの誕生日を開場目標とした。

 ペーターの沢山の写真のほかに、部屋の中央に、御影石の台座に載った兄のブロンズの胸像を置いた。有名な彫刻家クルト・アレンツによる作品だ。この人はアメリカの元大統領ジョージ・ブッシュ・シニア(第41代アメリカ大統領)の胸像も手がけていた。ペーターの数多くのゴールドレコードのうち、最初のゴールドレコードを壁に飾った。バイロイト音楽祭でのジークムントを描いた美しい油絵のコピーも飾った。当時、ホフマンのファンがこの素晴らしい作品を彼のために描いてくれたのだ。

 しかしながら、私にとっても最も重要だったことは、ペーター・ホフマンの部屋を彼の忘れがたい音楽で満たすことだった。そこで、部屋の一角のスクリーンで見ることができる一枚のDVDを制作するという考えが生まれ膨らんだ。父のホルストと一緒に音楽資料の保管場所をくまなく捜しまくるという骨の折れる細かい仕事の結果、それは完成した。今は興味のある訪問者はおよそ1時間、クラシック音楽あるいはポピュラー音楽の活動領域から選んだペーター登場の代表的場面を体験できる。さらに加えて、デジタルフォトフレームでペーターの輝かしい仕事歴や私生活の沢山の写真のスラドショウを見ることができる。このように、私たちは少しずつゆっくりとこの部屋を完成させて来た。そして、兄の記念としてふさわしい部屋を創造できていることがうれしい。
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 ペーターの誕生日までは実に長かった。2007年8月22日、ペーター・ホフマンの部屋開場式がケムナート市立図書館で行われ、私たちは全員その結果に予想以上に満足した。 計算できないほどの長い時間をかけた仕事だったが、訪問者たちは沢山の詳細な展示を喜んでくれて、それぞれにとってペーターと関わる最高の体験になったようだったから、私は大満足だった。やっぱり彼はシェーンロイトの自分の小さな城館に引きこもっている人間ではなかったのだ。人々のところへ向かっていく人間だった。そして、これこそがまさにその巨大な人気の理由のひとつだったのだ。彼はごく普通の隣人として好まれたのだと思う。
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 今も時々この部屋に一人で座って、ペーターの音楽をかけ、絵や彫刻を眺めて、二人の共通の素晴らしかった日々を思い出す。

 開場式の間、大勢の招待客がたくさんの写真をじっくり眺めてあれこれ評価していた。そして、ペーターのゴールドレコードは純金なのかという質問に私は辛抱強く繰り返し答えた。「違います」

 かなり以前のことだが、家に泥棒が入ったことがあった。泥棒は玄関に掛けてあったゴールドレコード、1ダースだけをねらったのだった。これらが純金製だと思ったのだ。しばらくしてヴァルデック近辺の森林地帯のそばで中身のない枠が見つかった。泥棒たちは材質的にはほぼ無価値のレコード盤を携えて逃げてしまったのだ。私は落ち込んだが、ソニーミュージックが私の大切な思い出の品を改めて作成すると知らせてくれたので、すぐに立ち直った。だから、とにもかくにも、それらは今もなお私の事務所の壁に飾られている。
☆ ☆ ☆


おまけ:

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26)ナミビア:楽しい旅行 [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.159ー165

 1993年に『楽しい旅行』というタイトルのテレビ番組のシリーズが撮影され、ペーターに出演依頼があった。ナミビアの南アフリカ人で狩猟区管理人で動物保護活動家のローレンス・ロレンソンの役だ。ペーターは普段から動物が好きだから、この役は彼にぴったりだった。そして、台本に彼自身の考えを反映できることを重視した。

 すばらしい国で大好きな馬に乗れる役だった。大自然の中で至る所で大きなのから小さなのまで多種多様の見た事のない外国の不思議な生き物に出会うはずだ。迷う事はなかった。引き受けることにした。ペーターの決定は大いに納得できた。ペーターみたいに世界中の大きなオペラハウスの舞台で高貴な聖杯騎士ばかり演じている場合、こういう気分転換は大歓迎だった。つまり、これは、彼が常に大きな価値を見出していた『全く違う仕事』だった。

 ナミビアの首都ウィントフックを車で短時間走ると快適なホテルに着いた。カラハリ砂漠はウィントフックの主要道路のすぐそばだ。向かい側にはドイツの小さな街にあるような教会があった。そこから遠くないところに1912年に建てられた馬に乗ったドイツ人の記念碑があった。ドイツ帝国がヘレロ族に対して起こした植民地戦争を思い出させるものだ。

 なんという明確な二重構造か。たくさんの建物や通りの名前までがドイツの植民地だった頃を思わせた。ホテルの隣に薬局があったが、入口にはドイツ語で薬局と書かれていた。夕方、他の出演者たちと一緒に近くのレストランで夕食をとったときに、最高に違和感を感じた。なまりのないドイツ語で挨拶され、渡されたメニューはドイツ語で次のように書かれていた。

       スペアリブのザワークラウトとフライドポテト添え ー 82ランド(750ユーロ)

 そして、もうびっくり仰天だったのは、冷たいビール付きのアフリカのスペアリブもやっぱりとても美味しかったのだ。だが、後にはその土地の料理のほうが好きになった。アフリカ産アンテロープのシチューやダチョウのステーキにはすぐ慣れて問題なかったし、ダチョウの卵のスクランブルエッグは撮影隊全員のぜいたくな朝食だった。

 動物保護活動家のペーターの最初の撮影日までに、彼にふさわしい馬を見つけなければならなかった。シナリオにはランス・ロレンソンの向こう見ずで危険な乗馬シーンが数カ所あったからだ。ほこりっぽい道をSUV車で何時間もカラハリ砂漠を通ってとある牧場に行った。そこでペーターにぴったりの馬を見つけた。近くには何もなかったから、ものすごい距離に耐えねばならなかった。ペーターは馬にはものすごくうるさかったので、さんざん間近で検討したあげく、目的にかなった、ふさわしい馬を見つけるまでに何時間もかかった。これははじめからわかっていたことだった。

 ペーターが快適に乗ることができるように、手綱やくつわ等の馬具と一緒に彼のウェスタン用の鞍や履き慣れた乗馬用のブーツもナミビアまで持ってきてあった。そのような物は兄にとって非常に重要で常に最優先事項だった。

 最初の撮影地、ウィントフック(ナミビアの首都)から3キロのところにある、オーストリア人、フリッツ・フラッハベルガーのオカプカ牧場へ行った。大牧場の入口でほろ酔い加減の警備員が
フラッハベルガー氏に電話で確認した後、中へ通された。丘の上の家の巨大なテラスから果てしない広大な土地が眺められ、フラッハベルガーがもはや母国に戻るつもりがないことがよくわかった。彼は、後で撮影した、私たちに彼の動物保護区のいくつかを見せてくれた。ペーターはその美しい地域についてもっと知りたがった。そこで、フラッハベルガーは私たちに助手をつけてくれたので、私たちは3人は古いランドローバーでアフリカのサバンナへ行った。私もペーターも是非ともジープの荷台に立ちたかった。そうすれば、この大自然をまさに満喫できた。そのせいで、私たちはほこりをたっぷり吸い込んだが、幸いペーターは歌わなくてもよかったから、大した問題ではなかった。舗装道路はめったになかったし、ライオンやヒョウと直に接触したくはなかったから、しっかりつかまっているのが得策だった。

 しかし、このドライブは通常の観光旅行ではなかっただけでなく、運転手にはヒョウを密猟するために装備された餌を付けた罠をコントロールするという別の仕事もあった。彼らは夜も昼も毎日のように広大な保護区の中であらゆる動物を捕まえることができた。1本の木のところで止まると、典型的なワインの栓抜き状の角を持った大カモシカの半分になった角がひっかかっているのが見えた。豹は獲物を木にひっかける。他の動物がご馳走にありつけなくするためだ。だから、罠もこの木の近くに仕掛けられているはずだった。レイヨウ(羚羊)の成獣を木のてっぺんまでひっぱりあげるとはいったいどれほどの凄い力なのだろうか。豹の足跡もあったが、今回は不運なタテガミヤマアラシが罠にかかって苦しがってうめいていた。運転手はこのかわいそうな動物をこん棒で楽にしてやった。そして、車の後部の私たちのそばに放り投げた。

 帰り道では、キリンを始め、アフリカのサバンナの野生動物たちを驚き眺めた。オリックスの群れが突然道を横切った。ペーターがほんの数メートルのところに、牧草地の柵にそのまっすぐの長い、尖った角がひっかかている雄のオリックスを見つけた。オリックスという名前はギリシャ語が語源で、尖った物という意味だ。雄のオリックスは200キロはある。私たちは運転手に止まるよう合図した。ペーターはジープから飛び降りて、怯えている動物を細心の注意を払って助けることにした。枝分かれした角は柵にしっかりとひっかかって、彼自身の力でははずすことが無理だと思われた。野生の雄に狙いを定めて蹴られたら、命にかかわる大けがをしかねない。私としてはこういうシナリオはご免だった。考える間もなく、兄はペンチで柵の細い針金を切断した。不安がっていた雄オリックスは大喜びで大きくひとっ飛び、自由を取り戻していた。この救助活動は、ペーターには何事もなかった上、私たちの心を癒してくれて、とても良い結果となった。無事にジープに戻ってから、私は兄に言った。「映画のわくわくする場面みたいだったよ」

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 そもそもペーターと私は遊びとしての狩りには反対だったが、今もその考えは変わらない。狩り目的の観光客にとって、アフリカの旅の目的は大金を使って、珍しい、美しい野生動物を、安全な距離から射殺して、居間の壁に戦利品として誇らしげに飾ることでしかない。私たちには全く理解できない。何と言う恥ずべき飾りだろうか。これらのすばらしい動物は大自然の中で体験してこそなのだ。芸術的な動物の絵を飾ったほうがずっと素敵だ。

 翌日、激しい追跡の場面の撮影中、ペーターは、何回か、私のビデオカメラすれすれにほこりを立てて全力疾走した。そのカメラは私の個人的なビデオ資料のために同時に使ってもらっていたので、当然ながら手には持っていなかった。次のシーンは別の農場で撮影したのだが、そこでペーターは数匹の飼いならされたチーターと一緒に撮られた。頭の小さい美しい猛獣たちはまるで飼い猫のように飼いならされていてとても平和的だったから、何の問題もなくなでさせてくれた。しかし、農場の動物たち全部がそんな風に人なつっこいわけではなかった。撮影隊の助手の女性がフェンスの上に危険のないサルたちが座っているのを見て、チーターと同じように、なでようとした。農場主の警告がちょっと遅すぎた。サルはそのご婦人の鼻に突然噛み付いた。血が流れ、彼女は、病院で破傷風の注射をするために、ナミビアの首都ウィントフックに戻らなければならなくなった。

 かくして、すべての撮影シーンはカバンに収まって、南アフリカのナミビアでのわくわく、どきどきの時間は残念なことに終わりを迎えた。機会があれば、最高に美しく、魅力的な場所であるこの国を訪れるべきだ。絶対に行く価値がある。

 楽しいご旅行を!
☆ ☆ ☆

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25)ナッシュビル&グレイスランド [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.152ー158

 ペーターと私は再び海を越えて遠方のミュージック・スタジオに向かった。今度は1993年にテネシー州のナッシュビルへ行った。そこで、カントリー・ミュージックだけのCDを録音する計画だった。世界中でここアメリカ合衆国の南部以上に良い場所はない。ナッシュビルはニューヨークにつぐアメリカで2番目に大きな音楽の中心地で、アメリカ合衆国では音楽の街としても知られている。

 街全体がカントリー・ウィルスにおかされていて、そこで見聞きするものはまさに全てがカントリー絡みだ。最高のミュージック・スタジオ、大きなレコード会社、主要な音楽出版社を見つけることができる。ちなみにここでは当然ながらほとんど全ての人が歌えるということにも注目すべきだ。

 私たちは名高いミュージックロー地区(Music Row)の端にあるアパートに居心地のいい住まいをこしらえた。この地域には、ほかでもないエルヴィス・プレスリーその人が常に関わっていた。彼は、向かいのRCAレコードのスタジオBで自分の歌を録音するためにマイクの前に立っていたときには、いつもこのアパートに住んでいた。

 メンフィスのグレイスランドにある彼の自宅はここからたった200マイルだった。私たちのアパートの部屋からの眺めには驚いた。中庭にアコースティックギターの形をした大きなプールがあったのだ。ギターの弦はプールの底に描いてあって、ギターのネックは飛び込み台だった。

 このアパートの壁一面はエルヴィスの自筆サインの入ったユニークな写真だった。数日後、興味深い珍しい物を見つけた。ペーターが本棚を眺めていたとき、エルヴィスのサイン入りの料理の本に目が留まったのだ。内容は全部高カロリーの南部料理の彼のお気に入りレシピだった。エルヴィスが若いころの体型を維持できなかった理由に納得したものだ。彼の好物を知ってびっくり仰天した。エルヴィスは肉だろうが付け合わせだろうが、ほぼ全ての料理に山のように溶かしバターをかけていた。彼が朝のコーヒーにも溶かしバター加えていたとしてももはや驚かないだろう。

 アパートのすぐ近くにペーターのCD『カントリー・ロード』を録音するスタジオがあった。なにしろナッシュビルの住人の二人に一人はミュージシャンだったから、私たちの録音のための著名なスタジオミュージシャンのバンドは短時間しか集まることができなかった。目一杯忙しいスタジオの一日が終わってから、数あるクラブのうちの一つでそこの生バンドでくつろぐ夜が楽しかった。

 夕食後有名なストックヤードのラウンジに座っていたことがある。バンドリーダーは有名、無名のカントリー歌手を次々と舞台に上がらせた。そして、数曲聴いて、もはや疑う余地はなかった。ペーターと私はその時までめったに聴いたことがないような質の高い歌を聴いたのだ。目を閉じれば、響きもアレンジもあまりにも完璧なCDを聴いているのだと思ったほどだ。

 数週間のナッシュビル滞在期間中、たまたまカントリー・ミュージック最大のコンサートが開催された。CMA(Country Music Assosiation)のファン祭りだ。多くのレコード会社が3000人を超える観衆で埋まったサッカー場の舞台で、各々自社のトップスターたちに生演奏させた。いつものように、私たちの友人でありレコード会社社長のヨッヘン・ロイシュナーがドイツから短期間訪問して、直ちに、私たちとナッシュビルのソニーミュージックとのこの重要な音楽イベントへの共同訪問を企画実行した。カントリーミュージック界の大勢のスターたちを生の舞台をそこに居て体験するというすばらしい経験だった。そして、それは文字通り現場に居て共に体験したと言う事ができる。なぜなら、私たちのために舞台の袖に椅子を用意してくれたので、私たちはまさにこの出来事のまっただ中にいたのだから。

 プロデューサーによるとナッシュビルには教会より音楽クラブのほうがたくさんあるということだ。ナッシュビルには教会が700以上あると思われる。プロデューサーの話が本当だとしたら、驚くべき事だ。


私たちはほとんど毎日スタジオのすぐそばのショーネイのレストランで朝食を取った。ここは4ドルで食べ放題だった。『どれでもご自由にどうぞ』を多くの客が完全に文字通り受け取っていた。4回おかわりする人が何人もいた。隣の席に座っていた極端に大量に食べる数人の客を見たときは
少なからず驚いた。彼らは山盛りの皿を数回平らげた後なおも山のようなデザートを取ってきたのだった。

 どうやったらそんなに大量に詰め込むことができるのだろうか。私たちは一度ならず不思議に思った。おそらくこの人たちにとって朝食が一日分の食事なのだろう。そして、幸運なことにナッシュビルだけでもこんなレストランが6つもあるのだ。

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 録音はとても順調で、予定より多少早く進んでいたので、一日休みにすることができた。ペーターはこの休日を利用してテネシー州メンフィスへの旅を提案した。エルヴィスのグレイスランドを訪ねようというのだ。二人とも行ったことがなかった場所だったので何が起こるか興味津々だった。


 ナッシュビルのソニーミュージックに電話したところ、親切にも運転手付きのストレッチリムジンを用意してくれた。それで、ペーターと私は車の後部座席でエルヴィスの音楽を聴きながら小旅行を楽しむことができた。正午にメンフィスの標識を通り過ぎた。駐車場はいっぱいだろうと思った。そうこうするうちにグレイスランドに到着した。予想した通り、私たちの第一印象は微妙だった。そこは完全に商業化されていた。エルヴィスに関する最も重要でない些細なことでさえ、ここでは金を稼ぐ種だった。そしてロックンロールの王様の肖像があらゆる物に付いていた。周知のようにこと趣味に関しては議論は不毛である。

 リムジンから降りたとき数人の人たちが私たちを見ていた。すぐに二人のドイツ人観光客が近づいて来て、ペーターにサインを求めた。そこは巨大なバスターミナルに到着したみたいな雰囲気だった。いくつかのビルの中にはエルヴィスのいろんな種類のキャデラックがあった。ビルのそばには旅客機ほどの大きさのエルヴィスの自家用機がとめられていた。室内は、長椅子、寝室、金の内装の浴室など、豪華な雰囲気があふれていた。通りの反対側にはエルヴィスの地所であるグレイスランドの小さな丘が見えた。

 観光客たちといっしょに込み合ったシャトルバスで音符記号の描かれた有名なアイロンゲートを通って彼の家の車寄せへと向かった。入口ですぐにすべてが比較的小作りなことに気がついた。私たちは大勢の訪問者と一緒にぎゅうぎゅう詰め状態で狭い廊下やいくつかの部屋を通り抜けて有名なジャングル・ルームのある階下の部屋へ進んだ。続いて、6台のテレビが壁にはめ込まれているテレビ視聴室があった。エルヴィスはこの部屋で仕事仲間たちと一緒に大好きなサッカー試合を見て、多くの時間を過ごしていた。ドアがガラス張りの冷蔵庫には彼の好きな飲み物、コカコーラとゲータレードが入っていた。次に牧草地を過ぎてプールまで、小さな丘を下ると、墓地があった。一時間の巡回が終わったとき、ペーターと私は思った。大勢の訪問者が毎日のようにエルヴィスのプライベートルームを突き進む大旅行は私たちにはあまりおもしろくなかった。私たちはもっとずっと瞑想的な状況を期待していた。

 この中央駅的雰囲気にはなんとなく違和感があった。

 それでも、結局のところグレイスランド訪問は楽しかったと言わざるを得ない。再びリムジンの柔らかな後部座席に沈み込んで州を結ぶ高速道路40号をナッシュビルへと走り、観光客とは全く無縁の心地よいエルヴィスのアパートへ戻った。

 アメリカ合衆国の極めて典型的なこの都市でクラシック音楽愛好家にはめったに出会わないだろう。だが、なじみやすいカントリーソングに感動できる人は『音楽の街』であるナッシュビルにふさわしい。カントリーはたくさんの音楽形式のひとつであるだけでなく、大勢のファンにとっては人生観そのものでもあるのだ。ここでは自然と自由の感情が重要な役割を果たしている。だからこそ、ペーターの感性にまさにぴったり合ったのだ。

 あの場所への旅は常に価値がある。

 そして、忘れないでほしい。朝食はショーネイで!

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☆ ☆ ☆

関連記事:CD:カントリーロード

目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人
ナッシュビル&グレイスランド



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24)ハンブルク:オペラ座の怪人 [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.143ー151

 ペーターがハンブルクでオペラ座の怪人としてはじめて舞台に立つまでには大変な準備が必要だった。あらゆる詳細事項がすっかり決まるまでの長期間に渡るプロデューサーのフリッツ・クルツとの契約交渉はハンブルクあるいはロンドンで行われた。そして最終的に分厚い契約書の膨大な量の契約にサインすることになった。アンドリュー・ロイド・ウェバー社、すなわち、"The Really Useful Group"も発言権を持っていた。どんな小さな事も契約にきちんと書いておかなければならなかった。

 ハンブルクのオペラ座の怪人についてはほとんど言い尽くされ、書き尽くされているので、ここではハンブルクでの小さな体験にしぼろうと思う。

 1990年6月、ついに準備ができて、パリオペラ座の地下墓地への幕がノイエ・フローラ劇場において初めて開いた。この大劇場はオペラ座の怪人の為に建てられたのだ。プロデューサーのフリッツ・クルツがペーターと私と共に工事現場を初めて一巡したときにはこの巨大で複雑な建物にはまだ屋根さえなかった。

 初日の左翼過激派による暴力的な反対活動は今でも全く理解できない。

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国から補助金を得ているドイツの他の劇場と違って、ハンブルクのオペラ座の怪人は完全な独立採算だった。建物の建築資金は大勢の投資家から調達されたもので、税金は必要ではなかった。あの時彼らはただ単にデモ行進のために通りを進んで、その結果、初日を妨害するのを楽しんだにすぎないように思う。この日、私は劇場の安全な敷地内にすでに着いていたのでよかったが、公演の後、私より数メートル前にいた一人の女性来場者が大きな外階段で運悪く転んだとき、通りにいた覆面をした過激派たちが拍手喝采してはやし立てたのを覚えている。

 初日のずっと前にハンブルクでの長期間のリハーサルが始まったので、私はまたペーターと自分のための住まいを探した。最初の6週間はハンブルクのアルスター湖のすばらしい景色が眺められるアトランティックホテルの小さなスイートに泊まった。親切なホテル支配人が私の求めに応じて個人用のナンバーを持ったファックス機をすぐに用意してくれたので、私は自分用のミニオフィスを設置できた。私たちの滞在終了時には真鍮のプレートが入口のドアに取り付けられた。これには『怪人スイート』と書いてあった。

 アトランティックホテルは居心地が良かったけれど、ペーターと私は街のちょっと外で暮らすほうが好きだ。数えきれないほどの不動産屋を回った末についに、夢のようにすばらしいエルベ河の眺めと美しい砂浜がある静かなファルケンシュタイナー海岸のブランケネーゼ地区にある広い家を見つけた。ここに新しい建物を建てることは許可されなかったため、そこには数軒の家があるだけだった。ここの少人数の住民以外は、狭い川沿いの道を車で通る事は禁止されていた。

 私たちはすぐに静かなレクリエーションの場所も見つけた。テラスから、水着姿の若者たちがビーチバレーをするのを眺めることができた。夏はちょっとした海岸でのパーティーの間、ひとつかふたつのキャンプファイヤーが燃えていた。そんなことがなければこの海岸はより瞑想的な雰囲気で、それはよかった。夏の間だけはまるで南の国の保養地みたいだった。

 ごく近所に私たちの友人のオットー・ヴァールケスが住んでいて、頻繁に会った。実際、ここでは完全にリラックスできた。夜明けに裸足で長い海岸の柔らかい砂の中を歩くのは何にもまして最高だった。

 加えて、ペーターは近くのファルケンシュタイナー・ゴルフクラブのゲストメンバーだったので、朝食の後、一人で一周した。しかし、しばらくすると、大好きな馬に会いたくてたまらくなって、一頭をハンブルクに連れて来ることに決めた。幸運なことに、私たちの住まいから石を投げれば当たる距離のところにある、納屋に馬を入れることができた。だから、天気の良い日には、朝ブランケネーゼの砂浜に登場するオペラ座の怪人を度々目撃できた。もちろん仮面なしで。

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 夜11時ごろ、たくさんの明かりをつけた巨大なイギリスのフェリーが居間の大きな窓の外をゆっくりと通り過ぎる眺めもすばらしかった。目には見えないほど遠くにあってさえ、船のエンジンの響きがつま先に感じられた。

 こんな風に言うとまるで最高の休暇のように聞こえるが、ペーターはハンブルクでオペラ座の怪人として300回以上舞台に立っていたことを考えれば、常に最高の成果をあげるためには、十分な気分転換がとても重要だった。実際ペーターはほとんど毎日、午後4時から化粧係によって大変な苦労の末、オペラ座の怪人に変身させられていた。

 公演後、私たちはいつも歓楽街のレーパーバーンを通って家に帰っていたにもかかわらず、名高いハンブルクの夜遊びを経験することはなかった。ペーターは帰り道でブランケネーゼのファルケンシュタイナーの土手にある小さなゲストハウスに立ち寄るのが好きだった。そこには世界一のローストポテトがあった。そこからエルベ河畔の私たちの住まいまで数メートルしかなかった。友人のリュディガー・コヴァルケの漁港レストランにもよく行った。そこでは公演後、すばらしく美味しい夕食を取って、リラックスした雰囲気で夜の時間を過ごすことができた。それから、アルスター湖にはものすごく感じのいいイタリア人パウリーノのレストランもあった。彼はいつもペーターの訪問を喜んで、すぐにペーターが大好きなパスタを出してくれた。

 オペラ座の怪人の公演は何週間も前から売り切れだった。ペーターとクリスティーン役の共演者アンナ・マリア・カウフマンとがとてもすばらしく調和していたのも間違いなくその一因だった。二人は外見がお互いにぴったりだっただけでなく、声も卓越していた。何ヶ月にもわたってしっかりした友情を育て、現在にいたるまでアンナ・マリア・カウフマンと私との連絡は途絶えていない。彼女のすばらしいキャリアはハンブルクでのクリスティーン役で始まったのだ。

 初日の数週間後、数人の観客が私に近づいてきた。彼らは劇場のホワイエでペーターのCDを買いたかったのだが、アンドリュー・ロイド・ウェバー社の"The Really Useful Group"が認めている販売戦略にそった製品のみ購入可能なのだと言う理由で手に入れることができなかったのだった。私たちのレコード会社であるソニー・ミュージックはまさに競争相手だった。従って、ペーターのオペラ座の怪人のCD以外は彼の音楽ではないというわけだ。私は前からこの問題についてはちょっと腹が立っていた。

 ボックスオフィスの真向かいのホワイエの前の場所に小さな売店がいくつかあった。私はそのひとつが営業していないのに気がついた。すぐにこの30平米の狭い場所にペーターの音楽だけの店を開こうという斬新な考えがひらめいた。私と劇場支配人ベルンハルト·クルツとの良い関係のおかげで、私の考えはすぐに実現できた。ペーターははじめこの店の成功には懐疑的だった。『客が来ると本気で思っているのか?』というのが彼の意見だった。

 店の名前はペーター・ホフマン・ミュージック・ショップにすぐに決まって、私は私たちのレコード会社ソニー・ミュージックの全面的なサポートを取り付けた。空っぽの店内にスポットライト、ホフマンのポスター、よく見える場所に感じのいいCDの棚を設置した。店の一方にはクラシックを並べ、もう一方の側にペーターのポピュラー音楽を置いた。窓には新しい商売に注意を向けさせるために次のような電光掲示板をつけた。『ペーター・ホフマン・ミュージック・ショップ』私はすぐに魅力的な女子学生を見つけて、販売員兼マネージャーとして雇った。公演の前後に実に大勢の人々がホフマンのCD1、2枚と共に家路につくために、この小さな店に人だかりがするほどになったのには心底びっくりした。

 こういわけでペーターの初期の懐疑主義はあっという間に消え去った。ただ一人の演奏家の音楽だけを提供する音楽店が存在した事があるとは私の記憶にはなかった。私はこの店の前を通るたびに、大勢の客を見てわくわくした。そして、この成功をちょっぴり自慢にも思った。

 現在、家でペーターのオペラ座の怪人の仮面を手に取るとき、このハンブルク時代を楽しく思い出す。それは多分このハンザ都市の実に良い雰囲気と必要ならばすばらしい静寂の地、エルベ河畔のファルケンシュタイナーの私たちの避難所に引き返すことができるからだ。

 Nur allein mit dir wird es vollbracht,
 mach aus meinem Lied Musik der Nacht.
 あなたによってのみ、それは達成される
 私の歌、夜の音楽を歌ってほしい
 (You alone can make my song take flight
 Help me make the music of the night)
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☆ ☆ ☆

関連記事:オペラ座の怪人1990年

目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人
ナッシュビル&グレイスランド


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23)ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.134ー142

 1991年のはじめ、ロサンゼルスでペーターのCD:Love Me Tenderが生まれた。それはエルヴィスの歌だけを録音したものだ。ソニー・ミュージック社長のヨッヘン・ロイシュナーと私たちはこのCDを寒いドイツではなく暖かいカリフォルニアのロサンゼルスで制作することに決めた。

 もちろんこの選択はアメリカ西海岸の都市ロサンゼルスの快適な環境だけによるものではなく、ここに格段に優れた楽団があることこそがより重要な理由だった。ペーターもこのようなトップクラスの仕事に絶対必要な重要条件を即座に納得した。

 外国での長期滞在に際しては度々していることだが、ふさわしい宿を少し時間をかけて探した。それは2011年にはポール・マッカートニーも新しいアルバムを録音した場所、ハリウッドのキャピトル・スタジオから遠すぎないところでなくてはいけなかった。たくさんの物件があったが、理想的だと思えるところはなかった。何と言っても6週間私たちの住まいになる予定なのだから妥協はできない。

 さんざん探して、ベヴァリー・ヒルズのサンイシドロ通り1807番地にモダンな家を見つけた。有名なベヴァリー・ヒルズ・ホテルのそばだった。その静かで実に広々とした家は斜面に建っていて、車で入って行くための専用道があって、隣近所は有名、無名の映画スターたちだった。夜にはプールサイドで冷たい飲み物を飲みながらロサンゼルスのすばらしい夜景を眺めることができた。

 美しい御婦人(pretty woman)が挨拶してくれそう!

 私たちのプロジェクトにはバーブラ・ストライサンドのプロデューサー、ランディ・カーバーが適任だと思われた。彼はすでにこの世界的スターのためにCDを制作して大成功していたから、特に声の扱い方についてよくわかっていた。キャピトル・スタジオの抜群の環境にアメリカの超一流のスタジオ・ミュージシャンとくれば、CD大成功のための最善の条件だった。ペーターはこの新たなわくわくする挑戦に大喜びだった。

 通常、歌手は、レコードの録音の終わりごろになって初めてそこに居合わせる。つまり、すべての伴奏の録音が終わった時だ。そして、歌手こそが、もっとも重要な『楽器』すなわちその声で録音を完成させるのだ。しかし、この時は、私たちは録音現場にはじめから参加して、ペーターは自分の音楽的な考えを繰り返し提案できた。これによって当然ながらすべてに関してより心のこもったものになった。ただし、テンポとそれぞれ異なる歌の調はもちろんはじめに決定されなければならないし、極めて厳密かつ慎重に決める必要がある。一旦テンポを決定したら、後で変更できない。1日4000ドルのスタジオ使用料を知れば、このように重要なCD制作にとっては非常に厳密でほとんど細心の気配りを要する準備こそが必要不可欠であることがわかるはずだ。プロデューサーのランディ・カーバーは音楽に責任を持っただけでなく、事前に決められたソニー・ミュージックの予算枠を守らなければならなかった。いつものことだが、結局大幅な予算オーバーになった。

 私たちは毎日快適な気温のハリウッド大通りを端から端までオープンカーで走った。チャイニーズ・シアターが左に見えると、キャピトル・スタジオはすぐだった。簡単な昼食で短い昼休みを取っただけで窓のないエアコンで温度調節をしたスタジオで録音する長い一日の後、夜遅くサンセット通りを再びのんびりと家に向かって走るのはいい気持ちだった。もちろんオープンカーでだ。ペーターはきょうカセットに録音した歌を生で歌って、赤信号のところで通行人に新しいCDのサンプルを提供した。ドイツの交差点である御夫人が大声で呼びかけたときのことは今も覚えている。 『ペーター、新しいCDはいつ出るの?』 『もうすぐです』とペーターは叫び返した。

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 スタジオで過ごす忙しい一日が終わると、私たちはベヴァリー・ヒルズ・ホテルにけっこう頻繁に立ち寄った。ポーターがいつものように私たちのオープンカーを駐車場に入れてくれた。すっかり疲れ果てた私たちは有名なポロ・ラウンジで軽く飲みながらバーのピアニストが弾く眠気を催すようなシナトラの演奏に耳を傾けてしばらく過ごした。まぶたが重くなってすぐに自分たちのベッドに横になるのに長い時間はかからなかった。

 有名なベヴァリー・ヒルズの夜を体験することは一度もなかった。

 私たちだってロサンゼルスに休暇で来たわけではなかった。しかし、ここではすべてが休暇のように感じられるのだ。ハリウッドには普通の労働者は存在しないみたいだ。だれもが映画スターか映画スターを目指しているかなのだ。ガソリンスタンドでブラッド・ピットもどきの店員は、メジャーな映画でガソリンスタンドの店員を演じるので、世界的なスターとしてのキャリアの準備を現場でするべく目下この仕事をやっているにすぎないのだと言った。彼が今もガソリンスタンドの店員役を演じているかどうかはわからない。『これがハリウッドなんだ!』

 6週間に及ぶ録音がほとんど終わった後、このCDジャケットの写真を太陽のふりそそぐマリブの海岸でピンクのクラシックオープンカー、キャデラックの前で撮るという私の考えにペーターは賛成した。ハリウッド在住、ベルリン出身のスター写真家であるジム・ラキート(Jim Rakete)がこの仕事を喜んで引き受けてくれ、1960年製のピンクのキャデラックを撮影所から借りた。

 さんざん探しまわったあと、ついにロデオ通りのえらく高いブティックで、ぴったりのジャケットを見つけた。ペーターもとても気に入って、写真撮影で着用した。

 ソニーミュージック社長のヨッヘン・ロイシュナーは私たちの録音の出来具合と写真撮影に非常に興味を持っていたので、録音が終わったとき、私たちはヨッヘン夫妻をベヴァリー・ヒルズの私たちの住まいに招待し泊まってもらった。翌朝マリブ海岸の約束の場所で写真家と担当者グループに会ったとき、カリフォルニアの太陽はどこにも見えなかった。全てが灰色ばかりで気分まで暗くなった。どうするべきか?

 マルホランド通りに近いハリウッドの山中に住んでいたジム・ラキートがそこへ行こうと提案した。そこなら一日のうち12時間は太陽が照っているだろうと言うのだ。ためらうことなく、キャデラックを輸送車に載せて、全員楽観的な気分で興味津々の山歩きに出発した。曲がりくねった道を進んでマルホランド通りの一番高い場所に着くと、ジムは写真撮影の場所を探した。そこには本当に太陽が見えていて、ロサンゼルスのすばらしい景色が眺められた。望ましい夕日、いわゆる青の時を延々と待ったあと、やっと写真撮影が終わって、ペーターはほっとした。ペーターは写真撮影がそれほど好きではなかった。『時々カメラののぞき方が全然わからないことがある』と皮肉っぽく言った。

 うれしいことに全て順調に進んだからよかったのだが、ペーターは運行が許可されていないピンクキャデラックを自分で運転して谷まで下りたがった。大いに心配したが、うまくいった。警官に止められなかったのは幸運だった。道ばたで数人の観光客が重厚なストリートクルーザーに乗った私たち二人に手を振った。曲がりくねった道でひどく甘かったブレーキがきいてくれてほっとした。

 キャピトル・スタジオで録音した歌のひとつはエルヴィスの『Little Sister』だった。ペーターが歌った最初のバージョンを試聴したとき、プロデューサーのランディ・カーバーがバックに男声が響いたほうがいいんじゃないかと言った。ヨッヘン・ロイシュナーとのバンド時代を思い出した私は彼をスタジオに呼ぼうと提案した。ペーターが同意してから、私はプールで日光浴中だったヨッヘンに電話をかけた。その少し後、彼とペーターははじめて一緒にスタジオに立っていた。そこで、二人は一緒に『Little Sister』をマイクに向かって歌った。レコード会社の社長がすばらしい歌手でもあるなんて、普通じゃないけど、素敵なことじゃないか!

 ロサンゼルスでのすばらしい時は終わりに近づき、レコードの録音が完成して、ささやかなさよならディナーをどこでしようかと考えた。

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 結局サンセット大通りにある名高いヴォルフガング・プックのレストラン、スパゴに席を予約した。ここで食事をしたことがないハリウッドのスターはほとんどいないと思う。レストランに着くと、大勢のパパラッチとカメラマンたちが入口ドアの外で待ち構えていた。私たちは大きな丸テーブルに座ってたっぷりの白ワインで大いに楽しんだ。厳しかったスタジオの仕事はついに完成し、私たちは素敵な数時間の祝賀会で自分たちをねぎらった。

 夜も更けたころ、私はプロデューサーのカーバーの白ワインを飲んでいる顔色に気がついた。彼は私にこっちに来てくれと合図していた。助けを求める調子で彼は私の耳元でささやいた。こんなに楽しい夕食をこれ以上続けたら、とてつもなく高いスパゴでのこの夕食のせいで、予算が間違いなく吹き飛ぶだろうと言うのだ。私はすぐにこの問題をヨッヘン・ロイシュナーに伝えた。彼はこう答えた。『ランディに言ってくれ。私が全部持つつもりだと』3000ドルの追加出費を免れてほっとした結果、ランディの顔色はゆっくりといつもの状態に戻った。

 翌日、たくさんの楽しい思い出とペーターの上出来のCD『Love me Tender』を荷物につめて故郷へ帰った。

☆ ☆ ☆

関連記事:エルヴィス・プレスリー
Love Me Tender








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ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人


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22)ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田昭夫) [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.127ー133

 バイロイト音楽祭の期間中には決まってソニーの創業者アキオ・モリタがシェーンロイトにペーターを訪ねた。私はミスター・ソニー、彼はこのように呼ばれていた、と会って、非常に気の置けない、音楽好きの、ごく『普通の』人だと思った。シェーンロイトでの初対面に居合わせたとして、世界最大のエレクトロニクスグループの創業者かつ経営者と話しているのだとはだれも信じなかっただろう。

 ペーターは彼をヨシコ夫人と共にシェーンロイトに招待したのだが、その時は私たちの母インゲがいつものように健康に配慮したコーヒーと手作りのケーキを用意した。モリタはリヒャルト・ワーグナーの音楽が好きで、おまけにペーターのファンだった。

 レンタカーのフロントガラスにくっついているたくさんのハエと蚊を取り除くのを手伝ってくれないかととても丁重に頼まれたときのことを私は今もはっきり覚えている。ガラスクリーナーの瓶を手してフロントガラスを掃除しようとしたとき、彼が自分でもやりたがっていることがわかった。そこで、きれいな布を渡して、私たちは一緒に汚れたフロントガラスを完璧に拭き始めた。私たちは笑い、彼は言った。『私たち二人が経済的に困窮したら、一緒にガソリンスタンドを始めたらどうかな』

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 彼は技術者でありながら、他の日本人のだれもが成し得なかったこと、異質な東西文化に橋を架けることに成功した。

 彼は優れた発明者でCDプレーヤーやウォークマンなどですでにいくつもの国際的な成功をおさめていた。今の若者は音楽カセット用のこの魅力的な小さなプレーヤーをほとんど知らないだろう。今はもっと小さいだけのMP3プレーヤーがあるわけだから。どんなものかという説明は簡単でわかりやすかった。つまり『好きな音楽をいつでもどこでも他人にじゃまされずに聴けるもの』

 シェーンロイト訪問中に最新のプロジェクトすなわち車に搭載するCDプレーヤーとそれに関連した諸問題について語ってくれた。困ったことに、車の走行中、その振動がCDプレーヤーに伝わって音楽の美しい演奏がたびたび中断されるのが煩わしかったのだそうだ。そして、単純だが天才的な解決法を説明した。ただ単にCDプレーヤーをまるごと油の中に置いたということだ。こうすることで、車の揺れが吸収されて、レーザー光線はCDを的確に読み取ることができた。そして、今はドライブしながら問題なく音楽が聴けるというわけだ。

 この頃ペーターと私は熱狂的なオートバイ乗りだった。座席の下に十分な数値の馬力を持った新しいホンダ1200での小旅行こそがもっともやりたいことだった。それで、兄は一度そのバイクを運転したくないかとモリタに尋ねたのだが、彼はペーターの後ろ、後部座席に座るほうがいいと決めた。猛スピードで走った充実の30分後、二人がシェーンロイトへ戻ってきたとき、青ざめてバイクを降りた彼は、時速220キロ以上で走るバイクのサドルにつかまっているのはものすごく大変だったと話した。しかしまた、ペーターと『ワルキューレの騎行』をしたのは大きな喜びだったということも力説した。ペーターとアキオが警察に逮捕されなかったのは幸運だった。

 一休みした後、ペーターはアキオにアクロバット飛行をやりたくないかと聞いた。アキオは喜んで同意した。兄はすぐさま、スパイヒャーズ村の近くの飛行場にいる、何度もアクロバット飛行の世界チャンピオンになった友人のマンフレート・シュテッセンロイターに電話をかけた。そこに到着すると、空の世界チャンピオンが私たちを待ちかまえていた。そして、彼はモリタに短く事務的にこう言った。『私はあなたのことを気をつけて見ています。あなたが気分が悪くなったら、すぐに着陸します』私も以前この遊びをやったことがあった。各種の宙返りやきりもみ状態の落下を問題なくクリアした。

 アキオ・モリタにとってこの冒険が非常に印象的であったことは間違いない。彼の著書『メイド・イン・ジャパン-わが体験的国際戦略(MADE IN JAPAN - Eine Weltkarriere)』にこの忘れがたい強烈なアクロバット飛行の体験が極めて詳細に述べられている。彼は出発後すぐに操縦桿を握って、指示に応じて4000フィートまで上昇した。彼が飛行機を水平に戻したとき、マンフレート・シュテッセンロイターが再び操縦桿を握った。その後、アキオ・モリタが予期しなかったことが起きた。シュテッセンロイターは前方回転に続けて横転を遂行した。そして、連続逆転宙返りをした。ミスター・ソニーは著書の中で『とにかく彼は機体を自由自在に操った。機体を落下するにまかせたかと思うと、再び水平飛行に戻し、また少しきりもみ状態で落下させたりした。要するに、彼は思いつくままにあらゆることをした。それは終わりがないように思えた』と回想している。

 アキオ・モリタ自身が述べていることだが、彼は『胃がとても強かった』にもかかわらず、アクロバット飛行が終わったときには実際すごくほっとしたそうだ。アクロバット飛行士が手で合図したので、私たちの客はショーが終わったと判断した。最後の一回転をすると飛行機は今度こそ着陸滑走路に向かった。アキオ・モリタはすぐに地上にヨシコ夫人とペーター・ホフマンと私が立っているのを見つけた。私たちは手を振った。その時冒険は突然思いがけない展開を見せた。ミスター・ソニーは著書の中で次のように述べている。『…ちょうど着陸滑走路の端の上の辺り、およそ50フィート(15m)の高さだったとき、パイロットは機体を仰向けにして再発進したのだ。ものすごく低く飛んでいたから、もうちょっとで頭が滑走路につくのではないかと心配だった』

 後に私たちの客は、ジェットコースターやそれに似たようことも『恐怖の楽しみ』を与えてくれるだろうが、今回の体験は全く比較にならなかったと、正直に白状した。スパイヒャーズ村でのアクロバット飛行の30分は彼にとって最も強烈な体験だった。彼の人生においてはおそらく『少々強烈すぎるスリル』だったかもしれない。彼はがくがく震える膝を抱えて小さな飛行機からやっとのことで降りたのだった。アキオ・モリタ曰く『私のありがとうは多分ちょっとうつろに響いただろう』


 私はむしろ、上空の荒々しい事態の成り行きを見ていたヨシコ夫人の落ち着いた泰然自若ぶりにとても驚いた。命知らずなアクロバット飛行を見て笑ってさえいた。私たちヨーロッパ人と比べて、日本人は多くの事で全く異なるメンタリティーを持っている。これは他の出来事でも気づかされた。

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 残念なことに、私たちの良き友人だったマンフレート・シュテッセンロイターは1986年悲劇的な飛行機墜落で命を落とした。当時ペーターと私はこの事故に大きなショックを受けただけではなかった。私は良い人は常にあまりにも早く逝ってしまうのは何故だろうとたびたび疑問に思う。ペーターは当時すでに何回か飛んでいたし、シュテッセンロイターの飛行学校で理論課程を終了していたが、この酷い事故の後すぐに飛行機操縦を完全にやめてしまった。

 モリタとの親交は何年も続いた。ペーターが東京へコンサートで行ったときには、もちろん観客席にアキオとヨシコが座っていた。公演の後、私たちは美味しい鮨の夕食の席で、オーバープファルツでのオートバイやアクロバット飛行のことをいろいろと思い返した。やはりこれらこそアキオにとって忘れられない強烈な思い出だったのだ。アキオ・モリタは1999年78歳のとき脳卒中で亡くなった。


☆ ☆ ☆




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ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
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ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
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ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
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ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
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21)ペーターのボリス:真っ白 [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.123ー126

 いつだったか動物が大好きな兄がアメリカから純血種のサモエドの子犬を連れて帰ってきた。この雪のように真っ白の毛の塊は、ペーターと一緒に入国するには、その前に、まず各種の検疫を済ませなければならなかった。この種類はシベリア原産なのでこの四つ足君は兄から『ボリス』というぴったりの名前をつけてもらった。この人なつっこくて賢い犬の際立った特徴は、その白い、とても厚い毛皮と常に微笑んでいるような顔の表情だ。

 ボリスは厳しい気候のオーバープファルツにあるペーターの3エーカーの敷地のシェーンロイトにすぐに慣れて、とても気分がよさそうだった。特に冬の零下のずっと低い気温になった、深い雪の中を思う存分走り回れればご機嫌だった。オーバープファルツの冬は雪不足などということはめったになかった。兄がまたアメリカ行きのために忙しく荷造りをていたら、ボリスは独特のわがままなやり方で抗議した。こっそり寝室のペーターのベッドに飛び乗ってそこで落ち着き払っておしっこをしたのだ。

 ボリスはよそ者たちにここの主人はだれなのかをはっきりと思い知らせた。ボリスがシェーンロイトにやって来てから、猫たちは敷地内を避けて通った。ボリスは猫たちがあまり好きじゃなかった。迷い込んでくる隣の雌鶏も卵を産むのを楽しめなくなった。ある日、キツネが一匹、獲物を求めて池の縁を歩いていた。このキツネもボリスから逃れることはできず、お慈悲もほとんど期待できなかった。しかし、犬の方は、狂犬病を疑われて、その後10日間、検疫所で過ごさなければならなくなった。これは彼にとって全然楽しくなかった。

 サモエド種の犬はその白くて厚い柔らかで密な毛皮の十分な手入れが必要だ。母のインゲが父のホルストと一緒にこの大変なブラッシングを毎日してくれた。この仕事で母はすばらしいことを思いついた。櫛削ったボリスの白い毛をなんとか紡いで、ペーターのセーターを編めないだろうかと言うのだ。こんなことは聞いたこともなかったから、実際のところ、最初は母のいつもの冗談だと思った。けれど、母は大まじめだった。ペーターの誕生日のプレゼントに、ボリスの毛で冬用のセーターを本気で作りたがっていた。そのためには何よりもまずは糸車で糸を紡ぐ昔の技術を駆使できる人を見つけなければならなかったが、母は本当にチェコとの国境の小さな町ベールナウで有望な人物を見つけたのだった。私たちの両親はとりあえずバスタブで洗った山のような白い犬の毛を持って、この婦人の家の前に立っていたときもまだできるかどうかわからないという気持ちのほうが大きかった。この一風変わった無謀な企ては遂行可能なのだろうか。そして冬のセーター計画は成功するのだろうか。犬の毛を集めるだけで2年以上かかったことも知るべきだ。

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何と言う奇跡か。糸紡ぎは問題なくできた。そして、その少し後、母はボリスセーター制作のための難しい編み物に取りかかることができた。ペーターの誕生日のサプライズは思いがけないびっくりプレゼントで完璧だった。ボリスは首輪に白い毛玉をつけてもらった。それから、犬の言葉でわかるようにするのは難しかったけど、母のインゲはボリスの名前でロイ・ブラックの「Ganz in Weiß (All in White)」のメロディーにぴったりの歌詞を書いた。
愛するご主人様へ

花束のように真っ白な僕の毛
来る年も来る年もむしられる
理由は全くわからない
それでも、黙って我慢してた、良い子だったから

だけど、きょうは気が狂うほどうれしい
こんなことに成功した犬はいまだかっていないから
真っ白に輝くふわふわのセーター
僕の毛皮が贈り物になった
僕たちが一緒にお出かけすると

みんなが言う:見ろよ!
犬と主人がペアルックだ
真っ白だ
なんてすばらしい光景だ

あなたの自慢の犬、ボリスより


☆ ☆ ☆



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ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
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リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
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20)アリゾナ:タンクヴェルデ牧場 [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.116ー122

 クリスマスシーズン、たいていの人は、クリスマスツリーを飾り付けたり、クッキーを焼いたり、甘い温ワインを作ったり、プレゼントを準備したりするのに忙しい。だが、この年、兄は全く別の考えを持って、帰宅した。

 この本の別のところですでに述べたことだが、ペーターはあらゆる面で「違うことをする」のが好きだった。そういうわけで、私たちはクリスマスを暖かいアリゾナの牧場で過ごすことに決めた。ドイツのクリスマスツリーの下ではなく、アメリカ南西部のとげのあるサボテンの下でのクリスマスだ。

 目的地はアリゾナ州のツーソン市にある夢のような場所、タンクヴェルデ牧場だ。リンコン・マウンテンズの中のこの地域は、この地独特の8メートルに及ぶ高さのサボテンが数えきれないほどたくさんの西部劇映画の舞台になった場所で、ワイアット・アープの有名な西部の町トゥームストーンがたった数マイルのところにあるのも偶然ではない。

 メキシコ風建築のタンクヴェルデ牧場はほとんと何も生えていない複数の丘に囲まれていた。到着したとき、ジョン・ウェインがすぐそこにいるような気がした。ペーターはすぐに放牧地のたくさんの馬たち、クォーターホースとアパルーサ馬をじっくり観察した。牧場の周囲に隣人はだれもいなかったから、私たちはすばらしい自然の眺めの中で完璧な静寂を楽しんだ。後で牧場主から聞いた話によると隣の牧場はポール・マッカトニーの所有だが、すべてのシャッターがしまっていて明らかに留守だった。

 タンクヴェルデ牧場は食堂のある平屋の母屋とプールのある大きなテラスから成っていた。私たちはほこりの中での乗馬の後、好んでこのテラスで涼んだものだ。客室は牧場を大きく取り囲んで配置されていた。プライバシーが守れることとその静かさがとても気にいった。ここは白人から逃げていた有名なインディアンの最後の酋長ジェロニモが捕まったところだということになっている。その後、彼はフロリダの収容所に送られた。

 だから、この地は今もなお「ワイルド・ウェスト」のにおいがする。

 もちろんペーターは、西部式乗馬の経験者として、牧場で知らない馬たちと対等につき合うのに何の問題もなかった。しかし、私のような非乗馬愛好家にとっては、この状況はあまりにも大変だった。そこで、私はまずは簡単な基礎コースの講習を受けた。その結果、まもなく私たちは一緒に最初の相乗りによる遠乗りにでかけることができた。気だての良い馬はほとんど何もしなくても落ち着かせることができた。それは瞬時にわかるものだ。馬はあらゆる恐怖を取り除いてくれる。だれかが私たちにはっきりと警告する以前に、鋭く尖ったサボテンのとげに近づくのを巧みに避けた。サボテンのとげは乗馬用の革ズボンの分厚い革さえ突き通して脚を深く突き刺すのだ。刺さったとげが折れたら見つけ出すのはものすごく難しい。

 数日経ってここの環境に慣れた頃、夕食の時、ペーターが冒険計画を打ち明けた。馬に乗ってリンコン・マウンテンズを相当長い時間散策して、キャンプファイアーをして寝袋で一晩過ごそうというのだ。私としてはこの提案を喜ぶべきかどうか確信がなかったが、どっちにしろ逃げたくはなかったので、この辺りの地理に詳しいガイドのメルと1泊2日の遠乗りのルートを相談した。

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 休息後、夜明けとともに山へと出発した。寝袋、調理道具、馬と乗り手の食料を装備した私たちはすごい幸運を探すゴールドラッシュの金採掘者の一団みたいだった。

 落ち着いた並足や速歩で穏やかな丘を進んだ。間もなく牧場が全然見えなくなった。あっという間に道もわからなくなり、すぐにどっちが北か南かもわからなくなった。遅くともこの時点で土地に詳しいガイドの価値を知ることになった。平らな岩塊がはっきり見える、水晶のように澄んだ流れの小さな川の前に来た時、なんだか気分が悪くなった。ここを渡らなくちゃいけないのか!自分の荷馬の手綱を引いて対岸に着いて、ひづめの下が乾いた地面になったときは、実にほっとした。そして、ちょっぴり誇らしい気分だったことも認めざるを得ない。

 ほとんど言葉をかわすことなく、壮大な西部の大自然の中を何時間も進んだ。ペーターが私の方を振り向いて小声でこう言ったのを覚えている。

 「水平線にのろしが上がっているのが見えるか」

 もちろんどこを見ても、のろしなんか見えなかったが、これも兄らしいことだった。兄は世界の主要オペラハウスから遠く離れて、邪魔されずに、大好きな馬に乗って大自然を享受できるときには、小さい男の子になりきってその状況を楽しむことができた。兄は歌手よりもカウボーイになりたかったのではないかとふと思ったりした。

 一度一緒に鞍にまたがって進んでいたら、一匹のコヨーテが目の前を横切った。その時私たちの馬は決して落ち着きを失わなかった。昼過ぎに平たい石ころだらけの川の縁に到達したとき、一頭の荷馬の腹帯が切れて、寝袋が清流に落ちた。全員がすぐさま鞍から飛び降りて、パニック状態でびしょぬれになった野営用品をかき集めた。

 日中のアリゾナの暖かい太陽は、この時期にはとても早く地平線に沈んで、その後はかなり急速に寒さを感じるようになることに注意すべきだ。

 だから、ただちに寝袋を乾かさなければならなかったので、時間をかけて考えることもなく、この流れの縁でキャンプすることに決めた。ペーターがすぐさま2本の灌木の間に自分の長い投げ縄をピンと張ったので、全ての寝袋をそこい掛けることができた。だが、これで大丈夫というわけではないことがすぐにわかった。誰も湿った寝袋で荒野の寒い夜を過ごしたいとは思わなかったから、たき火をすることに決めた。私はすぐに薪を探しに行った。間もなく私たちはペーターの投げ縄の下に長いたき火をすることができた。こうすることで寝袋が乾くスピードがはやまった。寝袋は日没までに『戸棚にしまえる』ほどには乾かなかったけれど、その夜はそこそこに過ごすことができた。

 キャンプファイヤーを囲んで星空の下に座っていたとき、自分のサドルバッグにウィスキーの小さなボトルを持っていたのを思い出した。私たちは全員、寝袋に潜り込む前に、身体が暖まる一杯を喜んで飲んだ。私は夜明けに一番に目が覚めた。ブリキのコーヒーポットをつかんで、小川の水をくんで、まだ燃えていたキャンプファイヤーの上に置いた。みんなを起こして、私が入れたひどく苦いコーヒーを飲んだ。これで少なくともちょっとは目が覚めた。

 やがて牧場へ戻る長い乗馬の行程にかかった。そして、徐々に暖かくなる太陽の光を楽しんだ。丘の上から谷間のタンクヴェルデ牧場が見えた時、心底ほっとした。牧場への最後の数マイルをインディアンに妨害されることなく鞍からおりた。お尻が痛かったが、歯をくいしばって、このことはもちろん自分の胸にしまっておいた。カウボーイは痛み知らずなのだ!

 私たちはやり遂げたのだ!

 馬たちに餌を与えた後、生温かいプールにつかって冒険の疲れを回復するのに、そんなに時間はかからなかった。その後、バーで軽く飲んで、美味しい夕食ということになった。その夜の乾いた、暖かいベッドこそが無上の楽しみだった。

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☆ ☆ ☆

目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白


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19)ボルドー:大地の歌 [2012年刊:フリッツ・ホフマン]

p.111ー115

 ペーターは幼い頃の夢をかなえて、車内は貴重な木の根と上質の革の香りがする、外見は完璧にイギリス式のすばらしい車、ベントレーS3を友人である有名なイタリア人テノールのマリオ・デル・モナコの息子に譲ってもらった。

 ペーターはこの車を自分でイタリアまで受け取りに行った。そして、ドイツでの自動車登録を早急に終了して、オーバープファルツの小旅行にすぐに出かけた。私も運転させてもらって、二人で街道をすべるように走ったときの感じは言葉では説明できないほどすばらしかった。ステレオ装置から流れる豊かな音はコンサートホールで聴いているみたいだった。

 ペーターはボルドーでグスタフ・マーラーの「大地の歌」で2公演の出演契約をしていた。ボルドーオーケストラとのはじめの公演は大学の講堂で開催された。2番目の公演は近くの町、ヴィルヌーヴの劇場が予定されていた。 当時ペーターはおおよそ全ての公演に飛行機で行っていたが、この時は違う方法で行きたがり、私たちは新しいベントレーでボルドーに向かった。およそ3000キロの小旅行になるということは気にしなかった。

 思ったことは即実行! 私たちはフランス西海岸のボルドーへと出発した。

 この時私はほぼ副操縦士だった。地図とにらめっこしなければならなかった。高速道路は避けるようにしたのだが、それはそんなに簡単ではなかった。あの頃はカーナビも携帯電話もまだなかった。しかし、反面、美しいフランスの田舎をひっきりなしに鳴る携帯の呼び出し音なしで横断するのはとても楽しかった。ペーターは新しいおもちゃを手に入れて得意になっていた。まるで初めて電車に乗った小さな男の子のようにうれしがっていた。数時間走ると、もうでこぼこのフランスの田舎道だった。彼が私に言った。「この車はすごくよく走るだけでなく、道を絹にするね」兄は新しい言葉を作るのが好きだった。実際、この重い車はフランスの田舎道のほとんど全ての穴ぼこだらけの道をまるで滑らかな絹のような道を走るみたいに進んだ。

 長かったが素敵なフランスのドライブだった。そして、私たちは同名の飲み物を味わうことなく、コニャック市を通り過ぎた。その夕方、ボルドーに到着したら、夕食はペーターの大好物の美味しいカキ料理にしようと楽しみにしていた。もちろん美味しいボルドーワインも楽しんだけど、疲れていたのですぐに寝てしまった。あれほどの長距離を車であんなに長時間走ったことはいまだかってなかった。快適なベントレーでの旅は忘れられない思い出だ。

 翌日は最初の公演が行われる大学の講堂で最初のリハーサルだった。この初めての環境はなかなか良い音響で、すばらしいコンサートになると大いに期待させられた。私はいつもリハーサル期間にはペーターの声が隅々まで届くかどうかを見極めるために、最悪の場所を探した。

 ボルドー大学の講堂には音響的な欠陥は見つけられなかったので、観客の大半が普段着の若い人たちだったこのコンサートは問題なく進んだ。ペーターはこのようなリラックスした雰囲気が好きだった。今やロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスのいわゆるプロムナードコンサートでさえ、こういうリラックスした雰囲気が強く、観客はTシャツにジーンズ姿でやってくる。私たちは、若いフランス人がマーラーの大地の歌をとても肯定的に、どころか、ほとんど熱狂的に楽しんだことに非常に驚いた。コンサートの間聴衆の中にあって熱狂的な人々の隣に座ることはとにかく理屈抜きで気持ちが高揚する。ペーターは常にコントラストプログラム、つまり「違うこと」に関心があったので、私たちは終演後のレセプションは短時間で切り上げて、ホテルのディスコで風と火と大地の音楽(大地の歌と混同しないでください)で美しいフランス女性たちと楽しく踊るほうを選んだ。その際、私たち二人ともすぐれた踊り手でないことはほとんど気にならなかった。

 翌日は次のコンサートが予定されていた、近くの町、ヴィルヌーヴに向かった。私はすでに地図で道を確かめてあった。ベントレーは今度もフランスのでこぼこの田舎道を苦もなく絹ように滑らかにした。

 昼過ぎにはヴィルヌーヴに到着して、劇場を捜した。閉じられたドアの前で辺りを見渡しても人っ子一人見当たらなかった。夜のコンサートのお知らせとか案内が全くないことにも気がついた。ペーターは場所が違うのではないかと疑った。フランスにヴィルヌーヴが数えきれないほど存在するとしても、ここで間違いないと私は確信していた。何と言ってもこんな小さな町に劇場があるじゃないか。その時、舞台入口のところに管理人がいるのを見つけた。彼は今晩確かにコンサートがあると言って私たちを安心させた。しばらくして、オーケストラを乗せたバスが到着し、私は小さなかわいらしい劇場の中で、座席数をおよそ600と見積もっていた。

 あまりきれいとはいえないペーターの楽屋は刑務所の独房ぐらいの広さで、汚れた格子窓を通して日の光がほんの少しやっとのことで差し込んでいた。私はコンサートの始まるおよそ1時間前にまだだれもいない観客席に行って、舞台の様子をじっくり観察するうちに、本当に600人の人々がこの劇場に来るものかどうか、徐々に疑念がふくらんだ。

 公演の前に兄が私に「外がとても静かだが、後でちょっと何人ぐらい来ているか確かめてくれ」と言ったとき、私はほんの数秒後にペーターの楽屋に戻った。なぜなら、全部で4人の観客はあっという間に数えられたからだ。青ざめた主催者が取り決めた報酬を減額したいという予想通りの目的で私のところにやってきた。お粗末な企画運営を私たちのせいには絶対にできないはずだから、私は彼に対して、この緊急事態は当然私たちの責任ではないことをはっきりさせた。よって、私は契約の履行を主張し、机の上のフランス・フランでのペーターのギャラを不機嫌に数えた。

 辺りはまだ比較的静かだったので、兄は公演の少し前にもう一度観客席をちらっと見てきてくれと私に求めた。今度は数えるのに前よりは多少時間がかかった。あれから時が経って、その時にはまさしく14人が席に座っていた。そこで彼らはほとんど内輪と言ってもよいようなプライベートコンサートを享受したのだった。どよめく拍手喝采とスタンディングオベーションによる公演終了後、ペーターのコメントは短いが気の利いたものになった。

 「このコンサートは私にとって、会場に座っている観客の数よりたくさん自筆のサインカードを持っている初めてのコンサートです」

  ユーモアとは、どんな時であれ笑うことだ!(註:Humor ist eben, wenn man trotzdem lacht.ドイツのことわざだそうです。ウェブ上で見つけた訳:「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うことである」)
☆ ☆ ☆

旧記事:ジュリーニ指揮:大地の歌

目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場


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