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新情報2018年 [記事]

「オペラ座の怪人」共演者
2018.4.18 お知り合いからの新情報
sylvia.jpg

現在も活躍中のテノール、フローリアン・フォークトの妻はソプラノのシルヴィア・クルーガーで、ハンブルクの「オペラ座の怪人」でクリスティーヌとして、怪人役のペーター・ホフマンと共演したとのこと。フォークトがホルン奏者から歌手に転向したのは、彼女の両親が彼の声に注目して勧めたからなのだということ。

そういえば、sylvia2.jpgホフマンのオペラ座の怪人の舞台写真で、相手役はアンナマリア・カウフマンではないような~と思ったのがあります。シルヴィア・クルーガーなのかもしれません。

フォークトのローエングリン@新国立劇場2012年6月fokt.jpg







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追悼記事-3 [記事]

デボラ・サッソンの追悼文 ビルド紙2010.12.5


12月6日(月)地元の教会での告別式の後、埋葬されました。マスコミはお断りだったそうですが、雪の降りしきる中、家族親族の他に、「オペラ座の怪人」のクリスティーンだったアンナ・マリア・カウフマンをはじめ、かつての歌手仲間も含めて100人以上が参列したそうです。前日に2度目の結婚相手デボラ・サッソンが寄せた文章がビルド紙に掲載されていました。
明日、私はあなたの棺の傍らに立って、あなたのために「アヴェ・ヴェルム」を歌います

前夫人、デボラ・サッソン(51)は、彼との素晴らしかった日々と大変な日々について手記を寄せた。彼女は最後まで彼を愛した。数週間前、オーバーフランケンの農場に、前夫を訪問したばかりだった。二人は1983年から1990年まで結婚していた。

デボラ・サッソン
05.12.2010 - 12:52
私達は歌に生きていました。歌に身を任せていました。歌うことは、喜びを表現することですけど、同時に、悲しみを表現することでもあります。明日、私はあなたの棺の傍らに立って、あなたのためにモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を歌います。聖堂を出る時には、「スカボロ・フェア」を聴くでしょう。あなたは音楽を愛しました。あなたこそ音楽でした。ですから、あなたの最後の道も音楽があなたを取り囲むべきです。

私達の時代の最高に素晴らしい声のひとつとして、あなたは人々の記憶に留められるでしょう。人々は英雄の姿を覚えているでしょう。あなたは舞台の上で英雄だっただけではなく、私生活であなたと共に過ごすことができた一人一人にとっても英雄でした。すなわち、最後の年月をあなたの伴侶として共に過ごした、毅然として勇敢なザビーネ夫人にとっても、そして、私にとっても、あなたは家庭の英雄でした。闘う人でした。元気な時も病気の時も同じでした。あなたの病気があなたを闘士にしたのです。

あなたのパーキンソン病はあなたを苦しめました。しばしばあなたを途方に暮れさせました。でも、あなたは決して諦めなかった。薬の量が適切でなかったとき、鬱状態と虚脱状態に襲われます。特に振戦麻痺は大変な苦痛でした。そういうときには、助けが必要でした。ザビーネはあなたのそばを離れませんでした。彼女は最高の人です。彼女より良い人を見つけるなんてことはできなかったでしょう。彼女の助けがあったからこそ、あなたは完全に尊厳を保って生活できたのです。ペーター、あなたは本当に苦しみました。でも、あなたは常に前進しようとしていました。諦めずに闘う。これこそがあなたにとって生きることでした。

三週間前に会ったのが、最後になりました。あの日のことを思い返すとき、あの日の訪問は私への贈物だったような気がします。明るい光りと喜びに満ちていたのですから。あなたは、あなたの小さな家族と共に、新しい農場へ引っ越したところでした。あなた方の周りには命があふれていました。大きな納屋の中を、ニワトリやウサギが歩き回り、その外には池がありました。あなたの寝室は1階にありました。これはほんとうに良いことでした。もう階段をのぼらなくてもいいのです。あなたへのクリスマスプレゼント、もう準備できていました。二頭の乳搾り用の羊です。あなたの小さな動物園がちょっと大きくなります。


あなたはもう十分頑張りました。本当にすごく頑張りました。もう十分です。あなたは生きる意欲満々でした。私たちは昔のことを話しました。レナート・バーンスタインのこと、ニューヨークのメトのシーズン開幕のこと、1980年代の中頃のこと。私たちとのおしゃべりの中で、「僕の好きなオペラじゃない」と言っていたのに、「パルジファル」の公演をミック・ジャガーが観にきてくれたこと。ミック・ジャガーはプッチーニのほうが好きだったんだ。当時、私たちは笑いました。そして、三週間前にも。私たちは同じように笑いました。とても楽しかった時間は、古びたり、変質したりしません。


あなたは「農場で働くのが楽しい」と言っていました。そして、私に聞きました。「デボラ、君はウサギのいる納屋を見たことがある? 天気が良ければ、改造するよ」 あなたに必要な事はそういうことでした。目標です。目の前の目標が、あなたに喜びを与えていました。あなたの身体があなたに従えなくなったときには、あなたの精神があなたを支えました。「どうやったら悲しめるのか」と、あなたはよく言いました。「私は、娘の中で、毎日、毎日、生命が育っているのを目の当たりにしている。彼女にとって、毎日が新しいのだ。彼女は成長している。一日、一日、重くなる。デボラ、残念だけど、私は彼女をもうほとんど持ち上げることができない。だけど、それでも、彼女は私を限りなく幸福にしてくれる」


この言葉は生き続けるでしょう。あなたは、敗者としてではなく、戦士として死んだのです。私たちはあなたの思い出を大事にします。同時にザビーネのことを決して忘れません。あなたの最高に素晴らしい成功のCDによって彼女を援助することができるでしょう。ペーター、私たちはあなたのそばにいます。同時に、ザビーネたちのそばにいます。私たちの唇にずっと残って、私たちの中で振動し続ける、歌のように。

以下は、その他埋葬に関する記事から抜粋です。

「ペーターは勝利者タイプでした。最高に天才的な人のひとりでした。大きな成果をあげた成功したスポーツマンでした。時にはちょっとした革命家きどりの人でした」 馬に目がない、馬狂いだった。彼のハーレイには、リヒャルト・ワーグナーの顔が描いてあった。「でも、難病には勝てなかった」とサッソンは語った。

ホフマンの棺は赤とクリーム色の薔薇で飾られた。マンフレート・ユング、ハンス・ゾーティン、エッケハルト・ヴラシハ等、かってのバイロイトの歌手仲間が告別式に参列した。
高名な歌手は、晩年は、三番目の妻ザビーネと幼いローラ・ゾフィと共にフィヒテル山地で引退生活を送っていた。ペーター・ホフマンは月曜日、生まれ故郷であるボヘミアのマリエンバートから遠くない、深い雪に覆われたヴンシーデルの墓地で安らかな眠りについた。
__________

Joerg Voelkerling
スターテノール、ペーター・ホフマン(享年66歳)への最後の別れ
先週亡くなった歌手は、月曜日、オーバーフランケンのヴンシーデルで、近親者によって埋葬された。

100人以上が墓地教会の告別式に集まった。その中にはミュージカルの舞台「オペラ座の怪人」で共演したアンナ・マリア・カウフマンもいた。

ブナの木の質素な棺はその朝、ヴンシーデルの聖三位一体墓地教会の墓地の聖堂外に安置された。

12時51分、白のアノラック姿の未亡人のザビーネが紫色のアノラックを着た娘のローラ・ゾフィーを連れて教会に来た。

12時55分、ホフマンの前夫人デボラ・サッソン。13時4分、6人の担当者が棺を聖堂内に運び入れた。オルガンが演奏され、デボラ・サッソンが「アヴェ・ヴェルム」を歌った。

ホフマンは特定宗派に所属しなかったため、牧師(司祭)はなし。プロの司会者(Trauerredner)が弔辞を述べた。
「我々の心は苦痛と深い悲しみでいっぱいです。緑の牧場で家族と共に過ごすという彼の夢はかないませんでした。一人のヘルデンテノールと優しい父親が失われました。しかし、彼は、家族とファンの心の中に、生き続けるでしょう」

Trauerrednerは、未亡人に、庭仕事とか手仕事をして気分転換をすることを勧め、彼の死を悲しむ人たちが、お悔やみを述べた。その中にはバイロイト音楽祭でホフマンと共に歌った歌手達もいた。

その後、オペラ歌手のアンナ・マリア・カウフマンが壇上にあがった。
「人としてのペーター・ホフマンの友情に感謝します。私達は20世紀最高のドイツ人テノールのひとりだった人を失いました。・・・世界は彼の生前の業績を尊敬の思いで見つめます。この世界に生まれたものは、死にます。私達もまたいつか行くのです。でも、思いは死にません。私はあなたのそばに留まります」

前夫人デボラ・サッソン
「彼は、私がこれまでに出会った最高の天才のひとりでした。偉大な芸術家、勇敢な闘士、そしてちょっとした革命家きどりのひとでもありました。・・・三週間前にペーターを訪ねました。その時、彼は生きる意欲満々でした。・・・あらゆる方法で難病と闘いました。でも、たぶん、彼の人生の中で初めて、人は全ての闘いに勝つことはできないと感じてもいたのではないでしょうか」

最後にデボラ・サッソンはサイモンとガーファンクルのスカボロフェアを歌った。そして、棺は聖堂から運び出された。ホフマンの娘、ローラ・ゾフィーは激しく泣きじゃくっていた。母親が彼女を抱きしめていた。近親者たち、デボラ・サッソンとアンナ・マリア・カウフマン等が、激しく吹雪く零度の寒さの中、深い雪に埋もれた墓地へ、棺に従って行った。



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追悼記事-2 [記事]

ブリュッゲマンの2001年の記事を引用した追悼記事:


英雄の生涯 ペーター・ホフマンの死
2010.11.30 Berthold Seewald

オペラ歌手で、ロック歌手、そして「オペラ座の怪人」だった。病気に対して果敢な闘いを挑み、・・そして、亡くなった。

ペーター・ホフマンほどヘルデンテノールらしかった人はほとんどいない。32歳のときバイロイトでジークフリート(←間違い。正しくはジークムント)を歌った。パリからニューヨークまで、ワーグナーの英雄を繰り返し見事に演じた。文字通りワーグナーの英雄を体現した。すなわち、ブロンドの見事な巻き毛、体格のよい大男としての外見で、ヴォータンやトリスタンやパルジファルの世界を絵に描いたように見せてくれた。こんなことができる歌手はほとんどいない。実生活でもポピュラー音楽でもミュージカルの舞台でも英雄を演じた。そして、とりわけ長年にわたる酷い進行性の病気と闘った英雄だった。そして、今ペーター・ホフマンは英雄の人生を終えた。オーバーフランケン州セルブの病院で、息を引き取った。66歳だった。

ホフマンのキャリアは根本的に英雄を演じる事だけだった。1944年ボヘミアのマリエンバートで生まれ、ダルムシュタットで育った。ロック歌手になりたかったのでロックンロールのバンドをやった。それだけではなかった。棒高跳びではヘッセン州の優勝者になった青年はもっと高いところを目指した。ドイツ国防軍で義務兵役につき、落下傘兵になった。その(兵役延長)補償金をカールスルーエの音楽学校で声楽を学ぶ資金にした。1972年モーツァルトのタミーノだった。1976年にはワーグナーのジークフリート(←間違い。正しくはジークムント)で頂点に立った。

現代のワーグナーの英雄
だが、ホフマンはオペラだけでは満足しなかった。「クロスオーバー」という概念が登場するずっと前に、ヘルデンテノールの彼はポップスとロックをやり、革の服を着てモーターバイクに乗った。まさしく現代のワーグナーの英雄だった。ポピュラー活動の収入だけでも晩年の静かな生活には十分だった。テレビの連続ドラマ「ワーグナー」ではリチャード・バートンとの共演で、テレビに初出演した。

そして、常に新たな挑戦を求めて、活動範囲を広げた。1980年代の終わりには、ホフマンの声はもはやオペラの要求には応じられない状態だった。そのとき、1990年、オペラの代わりに、ハンブルグでの「オペラ座の怪人」に出会った。だが、その後1994年には、パーキンソン病の初期症状と診断され、英雄の生活が期限付きであることが明らかになった。それでも、1997年には再び、バート・ゼーゲベルクのカール・マイ劇で、Gojko Mitic との共演でオールド・ファイアハンドという新たな役を引き受けた。しかし、2年後には、どんな投薬ももはや病気を抑えることができなくなった。バイロイトのそばに、古い農家を買って自伝を書き(←2003年刊のバイオグラフィーのことでしょう。マリタ・ターシュマンが数年かけてインタビューして書いて出版したもの)、「ペーター・ホフマン・パーキンソン・プロジェクト」によってパーキンソン病の研究を援助した。それ以外には、インタビューも、トークショウも、パーティーも、すべて断った。


「突然何もできなくなる」2001年に特別に公の場に出た。その時、「病気についてあまりにも楽観的だった」と彼は言った。彼は発作を甘くみていた。彼も、きょうは寝ていたほうがよかったと言った批評家も、重大な病気だとは思っていなかった。しかし、症状はどんどんひどくなっていった。体調不良は、彼が言うところの封鎖に対する絶え間ない闘いに変わった。「突然何もできなくなるのです。突如激しい不安に襲われます。全力で身体に全神経を集中しなければなりません。時には、朝起きても、何をどうすればいいのかわらないのです。残っているのは、ワルキューレを2公演続けて歌えた頃の思い出です」


最後には、それさえも、覚えていないかった。数年前には認知症の症状も出て、車いすの生活になった。そして、否応無しに他人の助けに身を任せるしかなくなった。このような状況に耐えることが、別の意味において彼を本物の英雄にした。英雄らしさには、受難が含まれるものだからだ。自分自身の身体に苦しめられなければならなかったことこそが、ホフマンの悲劇なのだ。

ビルド紙によれば、ペーター・ホフマンは、次の月曜日に、ごく近い家族だけで、埋葬されるということだ。

この記事に対するコメントのほんの一部を紹介しておきます
*バイロイトで歌ったのはジークフリートではない
*厳粛であるべき追悼ではない。扇情的で誤りがある
*ホフマンはバイロイトでワルキューレのジークムント、パルジファル、ローエングリン、マイスタージンガーのワルター・フォン・シュトルツィングを歌った。(←トリスタンが抜けている)それに、声楽の学費を兵役延長補償金で払ったのではなく、ドイツ連邦軍職業支援サービスによってカールスルーエでの声楽教育が受けられたのだ。だから、あそこには今も彼の謝辞が飾られている。ちゃんと調べないでウィキペディアを書き写すべきではない。
/https://euridiceneeds.blog.so-net.ne.jp/2018-11-29戻る

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追悼記事-1 [記事]

伝説の歌手


かつてのスターテノール、ペーター・ホフマンが死んだ
2010年11月30日 15:01 アクセル・ブリュッゲマン

引退したスターテノール兼ロックミュージシャンのペーター・ホフマンが66歳で死んだ
生き方の見本として記憶に残るような出会いがある。ペーター・ホフマンとの出会いはそれだった。

私は若すぎて、彼のバイロイト、パトリス・シェローの百年記念「リング」でのジークムントに生で接することができなかった。私は、強力な声と上半身はだかの筋肉たくましい身体の英雄のやる気満々で情熱いっぱいの姿を、DVDでしか知らない。

ペーター・ホフマンは、私にとって、1990年代のヘルデンテノールとはまるで違っていた。クラシック界に対して時に中指を立てて見せた男。ドイツの「オペラ座の怪人」になったブロンドの巻き毛の男。エルヴィスの歌とロック-バラードをあちこちの市のホールをどさ回りして歌った男。モーターバイクでリハーサルに現れた男。

ホフマンは病気と果敢に闘った
カラヤンとバーンスタインと共演した彼のオペラを知って、その感情のこもった抒情的で、力強い、本物の声に非常に感動させられた私は、彼のことを知りたいと思った。その時には、ペーター・ホフマンはいつの頃からだったのか、すでに姿が見えなくなっていた。だれも理由を知らなかった。自宅で会う約束をした。

フィヒテル山地を抜けて、のどかな田舎の街道を走り、フリーダースロイト村(Friedersreuth)に着いた。ホフマンはここに古い学校を改装して住んでいた。彼のお母さんがビスケットを焼いてくれた。


居間の壁にアメリカの古い車のボンネットが掛けてあって、ヤンキーのバーみたいだった。彼自身はと言えば、ジーンズに木こりシャツ姿だった。ブロンドの巻き毛は薄くなっていた。「そもそも話す意味があるのかどうかわかりません。私は病気です。非常に良くないのです」と彼は言った。

彼は時計に従って生活している。規則的に薬をのむのだ。そうやって、彼は自分を苦しめているパーキンソンを抑え込もうとしていた。しかし、彼の身体は時にダウンした。「自分がパーキンソンになるなんて想像もできませんでした。私はオペラのブロンドの英雄役で、ロックスターでした。でも、この病気になってよい人など誰一人いません」

ペーター・ホフマンは病気と果敢に闘おうと決意した。基金を設立し、大勢の人を援助した。自分自身としては病気を認めたくなかった。ブリュンヒルデに従ってワルハラに行くことに抵抗したジークムントのように病気に真正面から立ち向かった。

ゴルフクラブを持ち出して、テラスのドアを開けて、元気な様子を見せようとした。ボールを打とうと試みた。一度、二度、三度目の後、言った。「待ってください。もうちょっとでうまくいくから」そして、野原の向こうまで飛ばして、笑った。一打する間、彼は自分の身体の主人に戻ったのだ。

最後の数年間、彼は車椅子で、パーキンソンとそれによって併発した認知症と闘った。

あの時、別れ際に彼は言った。「人々がオペラ座の怪人とワルキューレを覚えていてくれたらうれしい。この二つは私の人生の一部です」
昨夜ヘルデンテノールは神々の力をやむなく受け入れた。ペーター・ホフマンはヴォータンに従ってワルハラに行った。テノールは66歳で病に屈した。彼の世紀の声が私たちに残された。その声こそが、音楽の無境界性のために闘った戦士の残したもので、それは永遠に生き続けるのだ。彼の歌声こそ、ポピュラー音楽とクラシック音楽、両方の世界の英雄が死後に残した生命なのだ。

*中指を立てる:一番最悪なのが、右手のこぶしに中指だけ上にまっすぐ立てて相手に向かって示す事です。
これは特に大喧嘩した時に、相手を黙らすために使うジェスチャーです。ドイツ語でStinkefinger(臭い指?)と呼びますが、その語源とジェスチャーの由来は不明。昔からこのジェスチャーがありますが、最大の名誉毀損で4.000EUR位の罰金になります。


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インターネット記事 [記事]

2005.1.13〜2010.11.29

hp60.jpg2004年8月、60歳の誕生日を迎えたからでしょうか、ドイツのサイトには、だいたい同じような内容ですが、相当数の関係ページが容易に見つかります。大体の内容をまとめておきます。

以下、ネット上で見つけた複数の記事からの抜粋、要約です。

テノールのペーター・ホフマンは、パーキンソン病のため、もはや仕事を続ける可能性はないと考えている。医学的な奇跡がおこらない限り、オペラの舞台に再び立つことはないだろうと、59歳の彼は『新評論 Neue Revue』に語った。また、バイロイト音楽祭にももう行かない。『私の後ろで、ちょっと見てごらん、あそこにあのホフマンがいる。手が震えているよなどと、人々がひそひそ話すことになるのは本意じゃない』ということだ。

記録によれば、ホフマンは1976年にはじめてバイロイトの舞台に立ち、ワーグナーの音楽祭史上、最年少の『パルジファル』を演じた。現在のクリストフ・シュリンゲンジーフ Christoph Schlingensief 演出を歯に衣を着せずこう批評した。『むき出しの巨大な胸の女性が「パルジファル」にとって意味があるかどうか、私としては大いに疑わしく思う』とホフマンは強調した。しかし、好みに関しては、周知のように人それぞれ異なるものだ。

ph03baby.jpgホフマンは七年前にパーキンソンと診断された。現在、彼は妻のザビーネ(29)と娘のローラ・ゾフィー(1)とバイロイトで引退生活を送っている。8月22日60歳を迎える。

趣味の乗馬も震えのため断念したと語った。『乗馬中に発作がおこり落馬する危険があまりにも大きくなった。』病気の進行を遅らせるために、毎日4回各種の錠剤を服用している。

しかし、日常生活においてはまだ完全に問題がなく、『99%助けは必要ではないが、たまに弟のフリッツに靴のひもを結んでくれないかと頼むことはある』ということだ。

『声はできるかぎりいつも訓練しているけど、聴衆は家族と友だちだけです。公の場に出るストレスにはもう耐えられません。興奮しすぎるとまず両手が震えはじめ、それから全身に及びます。』

最初に問題が影を落としたのが1987年、ボン・オペラのパルジファルのプレミエのキャンセルだった。また同年バイロイト音楽祭のトリスタンのときも観察者の見解によれば納得がいかなかったということだ。

補足: 上記、記事のうち
また同年(1987)バイロイト音楽祭のトリスタンのときも観察者の見解によれば納得がいかなかったということだ。
に関連して思い出したことがあります。
1990年にNHK放送の来日演奏家特集番組で、ほんの1、2分ホフマンの歌う「冬の嵐は過ぎ去り」を視聴しましたが、「不調」などという生やさしいものではない、病的な異常さを感じました。非常に不可解というか不思議な気持ちがしました。

歌唱も録音で聴いたものとの落差は相当でしたが、それよりも、その様子の方に異常を感じました。歌唱に関しては不調ということはどの歌手にもあるとして納得できます。しかし、あれだけのベテラン歌手が、舞台であのようなぎこちない硬直した様子を見せるものだろうか?!というのが最も違和感を感じた部分でした。

その後、この実演に接した方々による「悪評・酷評」はネットをはじめ雑誌などで度々目にしていますが、実演に接した人たちの中に、「病気」を疑った方も多少はいらっしゃったのでしょうか? 私は実演に接したことは、心底残念なことですが、ありません。

2010年11月29日夜、バイエルン州セルブの病院で亡くなりました。享年66歳。

*ネット上に載せられていたドイツの文化大臣のコメント:
"Peter Hofmann, unlike few others, bridged the gap between entertainment and serious music," Culture Minister Bernd Neumann said in a statement. "His accomplishments as rock singer in the Phantom of the Opera, but even more his exceptionally gifted interpretations of Wagner, are unforgettable."
Kulturstaatsminister Bernd Neumann (CDU) sagte zum Tod des Saengers, er habe wie kaum ein anderer eine Bruecke zwischen ernster Musik und Unterhaltungsmusik geschlagen und sich in die Herzen eines Millionenpublikums gesungen. "Sein Schaffen als 'Phantom der Oper', als Rocksaenger, vor allem aber als begnadeter Wagner-Interpret bleibt unvergessen."

2000年ごろインタビューしたアクセル・ブリュッゲマンの記事:英雄の半生
追悼記事:歌手伝説(アクセル・ブリュッゲマン)
追悼記事:英雄の生涯(2010年11月30日、アクセル・ブリュッゲマンの2000年頃の記事を引用しています)
*追悼記事:埋葬関連
※ ※ ※

2009年夏の驚き 私生活
*2018.4.18 新情報:「オペラ座の怪人」共演者



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